Roly-Poly Scarecrow

日記と趣味

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トリコロール問題その後

プロフィールの国旗問題は概ね意見が出そろった感じで、元に戻した人、そのままの人、元々変えていない人、それぞれ日常会話に戻りつつある。もうこの話題をFacebookで出すことは憚られる状態。みんな切り替えが早い。それとも頭の回転が速くて解決しちゃったのかもしれない。

しかし、僕にはまだ考える時間が必要。。。 [1] の続きをやろうと思う。前の記事はちょっと投げやりだし。
[1] Facebookのプロフィールをフランス国旗にすること

これを書いている間にも、プロフィール写真を変えることの愚かさを説いた文章が次々と show up している。「良いんじゃない?」的な意見はあまり増えない。なぜだろうか。

少なくとも「他の地域でも犠牲になっている人が沢山いるのに」という情緒的な意見については、「身近に思っている国で沢山の人が犠牲になったのに」という情緒的な意見と大差がないように思う。

復習

これだけ大勢が口をそろえて国旗に違和感を唱えることに傾いたのには、以下のような問題が提起され、思い当たる節があったからではないか。

[A] 国旗を示す事は、潜在的に多くの解釈を生む(地域・民族によって)。

[B] SNSの上で、限られた選択肢から自分の意見を発信することは思考を鈍らせる。行動が画一化する。

[C] 凄惨なテロがSNS上でイベント化すると、問題を矮小化してしまう [2] / 問題を解決しない、自己満足に過ぎない、偽善者だ。

[2] フランス国旗のフェイスブックはもうやめよう (ジョン・ジェイ, CNN.co.jp)

[A] について

  • パリのテロへの世界の反応に対して、他国・地域でテロや空爆の犠牲になった人々やその関係者が「なぜフランスだけ?」と思うことは自然だ。西側諸国と中近東諸国との間にはもともと確執があるうえ、軍事介入を受けている最中である。旗の色には敏感なのもしごく当然。この視点を広く伝えたのは、ジャーナリズムや国際問題に関わる人達による価値ある発信だと思った。
  • 一方で国旗を示す事が、その国民に対する親近感の他に、励ましや連帯を意味することも一般的に根付いていると思う。

  • ただ、前者に含まれる人々は後者を読み取る心の余裕など無いかもしれない。そういう人々がいる前では、慎重になるべきだろう。

[B] について

  • 言葉を使い、多様な意見をそのまま発すれば良いというのは尤もである。
  • アイコンを変更した(ほとんどの)人々は使える物で哀悼の意思表示をしただけで、少なくとも一部にあるような「空爆を支持する」や、その結果としての「中東での一般人の犠牲を許容する」わけではない。そのような議論は的を射ていない。

  • ↑正直、これは最も違和感を感じた意見で、これに賛同することは考え無しにアイコンを仏国旗に変えることと同様に思考停止しているのではないかと思った。日本国旗も空爆を支持しているので気をつけるのだろうか。

  • 簡単な方法は受け入れられ易く、結果的に画一的な意思表示が蔓延する。
  • 数多く流れてくるであろう個別のタイムラインを読むより、見つけやすいメッセージとも言える。ただし個性が無くなった。
  • SNSでの即時姓を優先する雰囲気が、簡単な方法での意思表示へと誘導している節はないだろうか。それは、思考の鈍化を危惧する意見に繋がると思われる。


[C] について

  • プロフィールを国旗に変えるか変えないかという事実と、問題について良く考えるかどうかに果たして相関性はあるのだろうか?
    とりあえず国旗プロフに変えたことで自己満足し、それ以上問題に近づかない事については良くある話だと思う。その人ができる事は、そこまでなのだ。その人は、プロフィールを国旗に変えなくても問題に深入りはしないだろう。逆方向については、この問題について比較的深く考えた人が国旗プロフィールに変えないという傾向は、もしかするとあるかもしれない。
  • だからといって、「プロフを国旗に変える人」が、「思慮深くない」人を系統的にふるい分けた集団にはならないだろう。「プロフを変えなかった人」の集団には、意図してプロフを国旗に変えない人と、それ以外の全ての理由(無関心、ログインしてない、方法が分からなかった、など)で変えていない人々が含まれる。同様に、意図を持って国旗プロフに変えた人と、ただ流されて変えた「思慮深くない人」の割合は、明らかにならない。
  • 「災害時ならまだ良い」という意見も良く発せられたが、 [B](思考鈍化)、[C](自己満足) という観点からは本質的に同じ行動だと思う。意思表示以外にあまり意味は無く、直接支援とはかけ離れている。戦場に比べれば特に[A](対立)のようなマイナス面が強調されないにすぎない。つまり、[A]があるかどうかで人々の反応が随分違うということになる。



SNSあるある?

…という具合に色々考えた結果、この問題はもっと単純な、テロとはあんまり関係無いSNSの”あるある”だったんじゃないかという方向に傾いている。 (つまり、既に問題は矮小化されているのだ。。。)

[B] [C] の問題は、これまでも、これからも外せない話題だと思う。何もテロに限った話では無く、同程度の思考鈍化が進んでいる気がするし、いつの時代も多くの人にとって自分から遠い問題へ積極的に関わる余裕はないのではなかろうか。もちろんそれで良いと言っているわではなく、自分のできる範囲の活動をすべきだと思う。このあたりは恐らく誰もが似たような環境(特に今すぐ出来ることは無い)にあったので、それほど全面に出して言っている人はいなかったように思う。

意外だったのは、[A] の視点を身から出た意見として発する人は、FBのフレンドの構成からしてほとんど考えられないにも関わらず、多くの批判は [A] に集中したこと。「パリの事件の直前に、テロの標的となったレバノン(あるいはロシア機の爆破も?)の人々がどう見ているか考えた方が良い」という感じ。僕の場合は限定公開で対外的には発していないからこの意見は当たらないのだが。。。

したがって、テロに対する反応としてどのような態度を取るかは自由だし国旗プロフは良識を欠く行動ではない、という僕の考えにそれほど変化はない。

でも現実は、別の理由で相手をもっと限定するべきだった。僕の場合は、特にフレンドの大半を占める日本人には見せる必要が全くなかった。欧州の人々に比べると自分を含めて日本国内に住む人は事件とほぼ無関係で、受け手側も相応に無関心だと勝手に判断したのだ。従って「人は人」とスルーするだろうと。その結果、僕の中で本件のやりとりの間、多くの人が不在扱いになってしまった。

これがかなり良く無かった。

[2015.11.26: 例えが下手なので取り消し線]
たとえるなら、心臓ペースメーカに影響が無いと分かっても尚、車内での通話が迷惑行為にあたるのと似ているかもしれない。何も起きていない関係のない場所で、関係無いはずの人による場違いな会話があちらこちらで大声で行われている、というシチュエーションに近いのではなかろうか。しかも同じフレーズを発している。。。「じゃあ、パターンAの電報でお願いします」みたいな。それ今ここでみんなでやるんかい的な。しかも既成品すか、といった具合の印象を与えたのかも。あるいは通勤帰りにテーマパーク最寄り駅から一斉に同じキャラクターの仮装をした人が乗ってきたとか。。。


デザインも良くなかった。プロフィールの一部に追加されるなら、まだくどく無かったかもしれない。しかし全面を国旗にしてしまい、受け手側も誰が誰だか分からなくなるし、なんだかなあ、となっていたかもしれない。

伝えたい人が誰で方法が適切なのかをキチンと意識するべきで、SNS特有の問題についても常に忘れないようにしたいと思った。今回のケースでは、プロフ写真の公開範囲が広い以上、個人メッセージに留める選択が適当だった。
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[ 2015/11/19 15:11 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)

Facebookのプロフィールをフランス国旗にすること

プロフの写真をトリコロールに変更した事で、間接的に多くの批判を頂いた。

丸腰の市民を狙った犯行への抗議、犠牲者への哀悼の意は変わらないはずだが、どこか僕の気持ちとは違った次元で論争が起きてしまったようだ。

世界を見よ

Facebook上で見かける批判記事の多くは[1][2][3]に示すようなブログをシェアしていて、要点は似ている。

パリだけではない。事件の背景にもっと目を向けるべきだし、世界の他の地域で起きている悲劇にも手を差し伸べるべきだ。写真変更は表面的で何も変えられないしカジュアルすぎる、自分の言葉や行動で示すべき。フランス国旗を掲げることはフランス側に立つことだからシリアへの空爆も支持していることになる。思慮に欠け、流されやすい人たちだ。

といったものだ。これらは[4]の記事の後に続く「なんでフランスだけ?」という一連の同調的な記事だ。海外でも[5]のような記事が同じような点を突いている。これらの記事は基本的に正論で、ぐうの音も出ない。もう少しプロフ写真から視点を外した書き方をしている[6]のような記事もあるのだが、FBでは批判的(やや攻撃的)な論調が目につきやすかった。

[1] FBプロフ写真のフランス国旗化に思う。テロは許されないけど空爆という名の無差別殺人を支持するんですか?
[2] FBプロフ「フランス国旗化」に対する強い違和感 (古谷経衡)
[3] 『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと (ふじいりょう)
[4] From Beirut, This Is Paris: In A World That Doesn’t Care About Arab Lives (Elie Fares)
[5] What is the point of changing your Facebook profile picture to a French flag? (CAMILLA HODGSON)
[6] ISを空爆するより、Facebookプロフをフランス国旗化するより、大事なこと―パリ同時多発テロ (志葉玲)

考えたこと

写真を変更したとき、人々は多様な意図を持っていたと思う。自分のフレンド(FB内の友達)の誰かを思い浮かべたり、単純にその瞬間の感情を表すためなど。ただ、FB側の用意したツールを皆が使った事により、結果として画一的なタイムラインが出現した。何故フランス国旗か?ということよりも、その時の動機が優先されたのだと思う。確かに、人々の何か行動したい欲求が高まるタイミングで、都合よくツールを提供したFBにうまく乗せられたと言える。同じ画像で連帯を示す事が目的でないなら、あるいは国旗だと波紋を呼ぶことを予測して、避けるべきだったかもしれない。

皆が同じ行動を取ることに気持ち悪さを感じる、という点については共感できる。でもそれはプロフ写真変更への批判についても今では類似した同調圧力に見える。結局、誰かの用意した素材(どこかで見聞きした識者の意見も含めて)を使えば似たようなタイムラインが並ぶことになる。

Facebookで記事を書くとき、少なくとも僕は「フレンド」たちに向けて投稿する。記事は常に限定公開で。そこは限られたコミュニティであって、あくまで個人の交流範囲だ。決して世界そのものではない。世界では色んな事が起きているけど、特別なことが無い限り僕は自分に近い順で物事を捉える。家族、友人、同僚、、、FBではフレンドとして繋がっている友人に心配する気持ちを伝える事の方が、今はたまたまFBで繋がっていない中東やアフリカの人々への気持ちより優先される。あくまでFacebook上での友人達とのコミュニケーションだから。もしシリアに住む友人が居たら、トリコロールにはせず他の方法を取るかもしれない。ただそれだけ。

※ちなみに、フランス国旗のプロフィール写真もちゃんと「限定公開」設定にできるので、外の人には見せなくて済む。意図的に「公開」することもできる。これも考え方次第。

似たような意見は既に書かれているので、[7][8]みたいな記事もリンクしときます。

[7] それでも僕が、Facebookのプロフをトリコロールにしたわけ (秋元 祥治)
[8] Facebookプロフィールに仏国旗をつけることに問題はあるか (小野昌弘)

どっちでもよくない?

「トリコロールを掲げない人はワンクリックすらしない」というつもりも無いし、「国旗を掲げるのは気持ち悪い」とか「自分は敢えて変えなかった」とか鬼の首を取ったように表明されるのも面倒くさい。それぞれが意図をいちいち説明せねばならぬなら、これくらいの文を書かざるを得なくなる。クリック2回だったからあの時に実行したのだ。

「SNSで批判されない立ち振る舞い」という意味では何もしないことが一番無難だけど、何かしたい時もある。LGBTの時は無関心だったし、アンケートや感動話のシェアも好きじゃない。でも今回は、あ、使ってみよう、と気まぐれで思った。それはその時誰かさんの顔が浮かんだからであり、フランス国旗の持つ歴史的意味やフランス政府の政策への理解ではない。国旗がこんなに多様な解釈を生むなら、単純に喪章にすれば良かったのにとは思う(パリだけ注目される事実は変わらないけど)。

SNSって、そんなもんでは、だめですかね、、、? プロフ写真、別のにした方がいいのかしら。

[2015.11.19] 続編を追加トリコロール問題その後


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[ 2015/11/17 16:08 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)

バタバタ12月

ただいま。です


先週はサンフランシスコで学会に行ってきたのですが、その話を書く暇もなく、査読結果が返ってきた。行っている間に。

議論の骨組みまではいじらないものの、文章は色々と再考せざるを得ない感じ。しかし返送の期限が容赦なくイヴに設定されてしまっている。ただ今現実逃避中。

見る人によってこうも意見が変わるかと思うと、誰にでも理解できる文章を書く難しさを痛感した。あと、効果的な図も。

よしっ、一回息抜いてまた戻ってこよう。

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[ 2010/12/23 17:52 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)

正義?

ハーバード白熱教室@T大を見た。このシリーズは結構好きで、機会があれば見ていた。

マイケル・サンデル博士の講義は、いつもとても大きな講堂で行われているにも関わらず、すごく活発に学生と議論する。これもアメリカゆえだと思っていたのだが、良い意味で安田講堂の学生が予想を裏切った。さすがにこの大学に集まる人々は自分の意見を言える人が多いけれど、それ以上に博士の講義スタイルがそうさせていうのかもしれない。

今回はこれまでハーバードで行ってきた議論のサブセットみたいな感じではあったけれど、印象的な題材もあった。
特に「前の世代が行ったことに、後の世代の人間は責任を負うべきか?」という議論は、戦争責任の議論に直結していてデリケートな問題だが、みんな結構率直に意見を述べていた。

個人的には「責任を負う義務は無い」という意見を持ち続けてきた。責任や賠償の範囲を個人から逸脱して子孫に適用する考え方は、個人の尊厳を侵害していると感じるからだ。

しかし国家の場合、その連続性や同一性をどう認識するか、ということも考える必要はあるようだ。

果たして国民は国家に対して義務や責任を負うべきなのだろうか。

国民は生まれると無条件に国家へ組み込まれる。しかし国民は選んで生まれてきたわけではない。このことが問題を複雑にし、例えば隣国からの謝罪要求を理不尽に感じるわけだ。

家族の場合も同様に親を選ぶことができない。法律ではデフォルトで借金も遺産として引き継ぐという考え方を採用している。もちろん引き継がれるのは負の遺産だけではない。資産は何であっても引き継がれる(はず)。個人が死亡した場合、財産の行き場を決めなくてはならず、落としどころとしては妥当に思える。

国家の話に戻すと、国家基盤も同様に考えることができる。ご先祖様が繁栄を極めていればその資産、国土をそのまま引き継ぐことができる。家族の話を”国家の資産・土地”と”国民(世代)”という関係に置き換えることができる。これは権利なのか義務なのか?一見当然の権利のように思えるし、そうであるならば義務も発生するように思える。

ここで生じる別の疑問は、「国家は人と同様の権利や義務を持つのか?」ということである。

もしそうであるならば、国民は個人としてではなく、国家の一部と見なされることになる。国家が人としての振る舞いを見せるとき、国民は国家という共同体を構成していて、共同体としての責任を等しく持つことになる。この考え方はコミュニタリズム(共同体主義)だろう。

責任は個人の問題であるとするならば、責任は個人で線引きされるべきであるが、現実的にはどうだろうか。このようなリバタリアニズム(自由主義)では責任の範囲を限定することが非常に面倒なケースがある。

典型的な例は戦争責任の問題だ。国家間の争いである戦争において、責任の所在を明らかにするのはどうすれば良いだろう。

我々は戦後世代であり、戦争そのものには関わっていない。だから責任は無いという考え方ができる。では戦争に参加した世代はどうだろうか?

責任が個人のものであるとするならば、誰と誰が責任を負うべきなのか?戦犯か?兵士の責任はどう果たされるべきか?非戦闘員はどうなるのか?戦争推進派と少数の戦争反対派に線引きするのか?

個人を基準にする場合、「世代」で線引きすることはむしろ妥当ではなく、厳密に責任を追及しなくてはならない。

一方、コミュニタリズムを導入するときリバタリアニズムの孕む問題は表に出なくなる。個々人の責任は影を潜め、人として振る舞う国家そのものが責任を負うと見なせるからだ。

さて、

僕が最初に主張したのは”リバタリアン(自由主義者)”としての意見にみえる。

サンデル博士に代表されるような”コミュニタリアン(共同体主義者)”の考え方では、国家に対する国民の責任は義務に限りなく近いものと捉えているようだ。

リバタリアニズム(リベラリズムも含むことにしよう)とコミュニタリズムは思想の端成分のようなものだから、実際には僕が全面的にリバタリアンであるとは思わない。「面倒を引き継がない代わりに、富の引き継ぎにも積極的でない。」というだけのものであり、税金による富の再分配に頑なに反対しているわけではない。場合に応じて都合良く選択しているだろう。

(もし本物のリバタリアンであれば、生まれながらに国家を選択できないことは受け入れられないだろうし、税金を払うのも納得できないだろう。弱者への支援は自らの意思で行うことであるので、富を再分配することは必要ないのだ)

一見リバタリズムに見える僕個人の意見だが、「国家」というコミュニティが大きすぎる(自分に影響が及ぶので烏合が悪い)と感じて「世代」というコミュニティに狭めているだけのコミュニタリズムだという考え方もできる。

今回の講義で「いつまで謝り続ければ良いのか?」という問いに「相手が忘れるまでではないだろうか」というやりとりがなされていたのが印象的であったが、コミュニタリズムはある場面では暗黙の了解として広く浸透しているらしい。これはしごく当たり前のことであると思う。そもそも「国家」というシステムそのものがコミュニタリズムに深く根ざしたシステムではないだろうか。

「個人には関係ない」という考え方は一見、歴史的な事実から目を背けるための理屈のように思われがちである。少なくとも国家に属しているうちは。

「前の世代が行ったことに、後の世代の人間は責任を負うべきか?」にノーと答えることは簡単ではなさそうだ。しかし同時に、イエスと答えるには帰属意識がやや足りないのも事実だ。

[タグ] ぼやき
[ 2010/09/27 22:28 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)

かりたもんはかえさなあかんで

先週の金曜日、博士号を取った先輩のお祝いで中野にある行きつけのアジア料理屋に行った。

就職も決まって良かったね~という話題の中で、「卒業したらソッコーで奨学金の返済が始まるんだけど」という話をした。

センパイが言うに「僕たち博士進学者は学部や修士で卒業していく人たちよりもさらに就職難だし、職も安定しない。なのに返済額は年数が嵩む分と貸与額が増える分も併せて膨大になっている。その辺考えてくれてないよねー凹」

そうなのだ。考えただけでゾッとする借金スタートの人生なんだ。

借りたのはもちろん自分の意思であるし、働いて返すのは大前提。がしかし、色んな人がいて色んなパターンがあるのだからせめて給与に見合った返済プランを考えてくれても良いよねー。

と愚痴っていたところ…今日たまたま早めに帰宅して久々にTVを見ていたら、クローズアップ現代で「返済できない奨学金」的な番組をやっていたので見てしまった。

将来を担う人材への投資であるはずの奨学金これで良いの?

ということで、特に問題視されていたのは
・増やされた有利子型、延滞金の付加
・取り立ての強化(信用機関へのブラックリスト登録など)
・景気の低迷

返済額に届かない金額をちょっとずつ返していた人が、利子(3%)と延滞金(10%)のせいで返済残高が2倍になった話を見ていると、ちょっと不安になってしまった。奨学金返すために職を変えたりとか。。。

奨学金を返すために働くってのは動機としてありえない。お世話になったからちょっとずつ返して、次の世代に恩返しするわけでしょ?その部分は、本来表に出てきてはいけない気がする。

サラ金か?

番組の論調は、
・給付型を増やしましょう
・返済額を給与に見合ったものにしましょう(やっぱそうだよね)
・…
といった感じ。


まず「奨学金」というネーミングを今すぐやめたほうが良い。「就学借用金」とか、借金を前面に出したらいかがか。

国が予算配分をどうしてくれるか知りませんが…海外の先進国のように学費無しだとか、給付にするなら奨学金でも名は通る。

借金して大学に行くべきか?近ごろ高卒と大卒で何か違いはあるんだろうか?集団就職社会って若干キモチワルイ。などかつて色々言ってきたが…

ようするに満額借りてます。

制度変わらないかなー

[タグ未指定]
[ 2010/09/06 21:14 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)
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