Roly-Poly Scarecrow

日記と趣味
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正義?

ハーバード白熱教室@T大を見た。このシリーズは結構好きで、機会があれば見ていた。

マイケル・サンデル博士の講義は、いつもとても大きな講堂で行われているにも関わらず、すごく活発に学生と議論する。これもアメリカゆえだと思っていたのだが、良い意味で安田講堂の学生が予想を裏切った。さすがにこの大学に集まる人々は自分の意見を言える人が多いけれど、それ以上に博士の講義スタイルがそうさせていうのかもしれない。

今回はこれまでハーバードで行ってきた議論のサブセットみたいな感じではあったけれど、印象的な題材もあった。
特に「前の世代が行ったことに、後の世代の人間は責任を負うべきか?」という議論は、戦争責任の議論に直結していてデリケートな問題だが、みんな結構率直に意見を述べていた。

個人的には「責任を負う義務は無い」という意見を持ち続けてきた。責任や賠償の範囲を個人から逸脱して子孫に適用する考え方は、個人の尊厳を侵害していると感じるからだ。

しかし国家の場合、その連続性や同一性をどう認識するか、ということも考える必要はあるようだ。

果たして国民は国家に対して義務や責任を負うべきなのだろうか。

国民は生まれると無条件に国家へ組み込まれる。しかし国民は選んで生まれてきたわけではない。このことが問題を複雑にし、例えば隣国からの謝罪要求を理不尽に感じるわけだ。

家族の場合も同様に親を選ぶことができない。法律ではデフォルトで借金も遺産として引き継ぐという考え方を採用している。もちろん引き継がれるのは負の遺産だけではない。資産は何であっても引き継がれる(はず)。個人が死亡した場合、財産の行き場を決めなくてはならず、落としどころとしては妥当に思える。

国家の話に戻すと、国家基盤も同様に考えることができる。ご先祖様が繁栄を極めていればその資産、国土をそのまま引き継ぐことができる。家族の話を”国家の資産・土地”と”国民(世代)”という関係に置き換えることができる。これは権利なのか義務なのか?一見当然の権利のように思えるし、そうであるならば義務も発生するように思える。

ここで生じる別の疑問は、「国家は人と同様の権利や義務を持つのか?」ということである。

もしそうであるならば、国民は個人としてではなく、国家の一部と見なされることになる。国家が人としての振る舞いを見せるとき、国民は国家という共同体を構成していて、共同体としての責任を等しく持つことになる。この考え方はコミュニタリズム(共同体主義)だろう。

責任は個人の問題であるとするならば、責任は個人で線引きされるべきであるが、現実的にはどうだろうか。このようなリバタリアニズム(自由主義)では責任の範囲を限定することが非常に面倒なケースがある。

典型的な例は戦争責任の問題だ。国家間の争いである戦争において、責任の所在を明らかにするのはどうすれば良いだろう。

我々は戦後世代であり、戦争そのものには関わっていない。だから責任は無いという考え方ができる。では戦争に参加した世代はどうだろうか?

責任が個人のものであるとするならば、誰と誰が責任を負うべきなのか?戦犯か?兵士の責任はどう果たされるべきか?非戦闘員はどうなるのか?戦争推進派と少数の戦争反対派に線引きするのか?

個人を基準にする場合、「世代」で線引きすることはむしろ妥当ではなく、厳密に責任を追及しなくてはならない。

一方、コミュニタリズムを導入するときリバタリアニズムの孕む問題は表に出なくなる。個々人の責任は影を潜め、人として振る舞う国家そのものが責任を負うと見なせるからだ。

さて、

僕が最初に主張したのは”リバタリアン(自由主義者)”としての意見にみえる。

サンデル博士に代表されるような”コミュニタリアン(共同体主義者)”の考え方では、国家に対する国民の責任は義務に限りなく近いものと捉えているようだ。

リバタリアニズム(リベラリズムも含むことにしよう)とコミュニタリズムは思想の端成分のようなものだから、実際には僕が全面的にリバタリアンであるとは思わない。「面倒を引き継がない代わりに、富の引き継ぎにも積極的でない。」というだけのものであり、税金による富の再分配に頑なに反対しているわけではない。場合に応じて都合良く選択しているだろう。

(もし本物のリバタリアンであれば、生まれながらに国家を選択できないことは受け入れられないだろうし、税金を払うのも納得できないだろう。弱者への支援は自らの意思で行うことであるので、富を再分配することは必要ないのだ)

一見リバタリズムに見える僕個人の意見だが、「国家」というコミュニティが大きすぎる(自分に影響が及ぶので烏合が悪い)と感じて「世代」というコミュニティに狭めているだけのコミュニタリズムだという考え方もできる。

今回の講義で「いつまで謝り続ければ良いのか?」という問いに「相手が忘れるまでではないだろうか」というやりとりがなされていたのが印象的であったが、コミュニタリズムはある場面では暗黙の了解として広く浸透しているらしい。これはしごく当たり前のことであると思う。そもそも「国家」というシステムそのものがコミュニタリズムに深く根ざしたシステムではないだろうか。

「個人には関係ない」という考え方は一見、歴史的な事実から目を背けるための理屈のように思われがちである。少なくとも国家に属しているうちは。

「前の世代が行ったことに、後の世代の人間は責任を負うべきか?」にノーと答えることは簡単ではなさそうだ。しかし同時に、イエスと答えるには帰属意識がやや足りないのも事実だ。
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[タグ] ぼやき
[ 2010/09/27 22:28 ] 戯れ言 | TB(0) | CM(0)
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